延寿寺の歴史


当寺は永明山延寿寺と称し、荒神山の南斜面にあり古木の繁る広い山内は、創建当時は大きなお寺であったことをうかがわせます。

寺伝によりますと、創建は今を去る千二百年の昔、天平勝宝749年聖武天皇が東大寺大仏を建立せられるにあたり、僧行基によって四十九院を建立された四天王格の寺院でした。

創建当時は、荒神山奥の院(今の荒神山神社)を奥の院として湖東平野、愛知犬上両郡に四十九院の寺院があったと伝えられています。

平安時代になりますと、天台宗が隆盛を極め、境内の上には宝塔、諸堂伽藍がならび、山麓には十坊が甍をつらねていました。十坊とは、福泉坊・西行坊・来徳坊・来福坊・善徳坊・善満坊・覚前坊・千日坊・福蔵坊・実蔵坊であり、他境内には静林寺があり、現在でも、蓮池・南大門・北大門等の地名が残っており、当時はいかに広大であったかがうかがわれます。

元亀、天正の頃(1580年)織田信長の兵火にあい、お堂がことごとく消亡し、わずかに本尊観世音菩薩の尊像一体が火焔の中より出現されて、一僧が背負って荒神山の宮殿に運び込んだと記してあります。

消失後四十数年を経て、山麓の人たちがこの寺の廃亡をなげき、菩薩の尊像を迎えて再興をはかり、永源寺八十一世如雪文岩禅師を迎え、禅刹として復興しました。禅師の弟子拙心正千禅師が住山せられるや、遠近の人々の帰依が多く、ならびに井伊家、家臣中川琳庵等の外護により、本堂以下諸堂伽藍建立なりり法灯が再び栄え、三百年を経て現在に至っております。

 


延寿寺のご開山

                          拙心正千禅師 (1630年~1705年)
 拙心は、寛永7年(1630)京に生まれ、13歳にして当時丹波の法常寺に住していた一絲文守(1608~1646)のもとで得度し、一年ほどして一絲とともに永源寺に移りました。しかし、その数年後の正保3年(1646)に一絲は遷化してしまいます。そのとき拙心はまだ17歳でした。師の没後、拙心はおそらく永源寺新住持の法兄如雪文岩のもとにいたのでしょう。明暦3年(1657)に廷寿寺に移ってから22年後、拙心は延宝7年(1679)から貞亨元年(1684)までの5年間永源寺住持をつとめましたが、さらに3年後、請われて再び住持となりました。拙心は、自分が住持になる以前にも南嶺慧詢の住持時代に補佐をしています。永源寺退院の後、廷寿寺に戻り「空果」という幽軒を建て、宝永2年(1705)9月9日、この空果軒において遺偈を書き、定印を結んで坐したまま眠るように示寂したといいます。世寿76歳でした。